本名
龍造寺 徹(Tohru Ryuzoji)
生年月日
1970年03月07日 兵庫県神戸市生まれ。49歳になりました。
昭和45年(1970年)03月07日、兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町に龍造寺毅と田淵眞子の結婚1年後に長男として生まれる。生家の家の鍵は南京錠であった。 家の道向かいには、大木がそびえ立っており、小さい頃にはよくそこで遊んでいた。
昭和51年(1976年)正月、父親が帝人に誘われて神戸から松山市に引っ越す。遅生まれで体が小さく、よくいじめられていた。一番のいじめっ子は松岡秀樹。 口癖は、「泣け、わめけ、叫べ」二番目のいじめっ子は誰だったっけ。
昭和51年(1976年)4月、松山市立生石小学校に入学。成績は悪くないという程度。読書が好きで、通学の帰路に本を読みながら歩いていた。 教室の学級文庫は全て読み、図書館の本を全部読んでやろうと本気で考えたが、それは無理だった(笑)。当時のあだ名はりゅうきん。 小学校6年の時に中学生の問題が出たが、解けたのは私だけだった。ドッジボールを上級生とやった時、一歩前に出てボールを取ろうとした事が有る。クラスで大平総理大臣の死亡原因を答えられたのは私だけだった。参観日当日、最後尾の席で授業中居眠りをしていた。
昭和57年(1982年)4月、砥部町立砥部中学校に入学。成績はよかった。入学当初の成績は学年9番。一年の時にSHARPのポケコンPC-1245を、 2年の時に同じくX-1を買ってもらい、夢中になる。学校の成績は中だるみしていたが、高校受験が近づくにつれ成績を上げる。周囲はいじめっ子ばかりだった。 田舎に優等生で金持ちは辛かった。
昭和60年(1985年)4月、愛媛県立松山南高校 普通科に入学。最初の進路志望は京都大学 理学部 天文学科。物理では学年の上位にくる事が多かった。 苦手科目は英語。部活動は物理部副会長とコーラス部。月刊マイコン誌に掲載されていたマシン語のダンプリストを入力する為の Hu-BASIC で16進数入力、 チェックサムをチェックするプログラムとか自作していた。U-BOAT のダンプリストが実は実行後のダンプリストで書き換えられていた、 と言う事件でやっぱり打ち込みより購入した方が安全派になる。X-1 のマシン語を勉強しようとするが、アセンブラを購入してもらえなかった。 買ってもらっていたら、情報学部に進学していたであろう。コンピューターの教室で物理の先生やクラスメイトと N88-BASIC でプログラムを組んだり、 大戦略2 を遊んでいた。音楽の出ないコンピューターで当時遊べるゲームはこれくらい。物理の先生曰く、カナキーを押した事をどうやって検出したらいいんや。 私曰く、仮名文字を入力したらカナキー押した事になりますよ。高校3年時の担任は英語の教師だったが、プレジデントを首相と訳した。 私が大阪大学理学部を受験したいと話すと、職員室の中にも構わず大笑いした。
16時頃授業が終わって18時までコーラス部、22時まで本屋さん、晩ご飯はその後、通学片道 20km 傾斜15度の坂付き、就寝は午前3時という生活を送る。 現役時の共通一次試験の自己採点は800点満点中620点(ただし物理は50点)。 松山南高校
昭和63年(1988年)4月、高松高等予備校に入学。寮費だけ負担(授業料免除)の特待生。高松から松山まで、160kmを8時間程度で自転車で走破する。 数学の問題で高校の数学教師に解けない問題を職員室の中で出す。物理の問題解決能力はピークに達し、最後の共通一次試験直前模試では記述式試験で、 二次受験者だけで全国平均点15点のテストで86点取る。全国偏差値86、全国ランキング96位(公称値)。受験者数299,36人。偏差値86は3万人に一人。 大学への数学の学力コンテストに応募し、テレホンカードを貰う。高松市内の FINAL LAP 大会で3位、後に懸賞でケニーロバーツのラッキーストライクスポンサーの レース教本を当てるが、未成年だったので一通り読んだ上、好きそうな人にあげた。共通一次試験の自己採点は 800点満点中 670点(ただし物理は 60点)。 高松高等予備校
平成元年(1989年)4月、立命館大学 理工学部 数学物理学科 物理課程に入学。入学から一週間後、自転車で全力疾走中、ハンドルに掛けていた傘が前輪に挟まり、 ロック、一回転して前歯を2本折り口の周りを何針か縫うけがをする。保険証の写しを持って行っていなかったばかりに、全額自己負担。 親はそれを知っても費用を払おうとはしなかった。この時点で私は親は既に偽物にすり替えられたと考えている。偽父親は在日韓国人、 偽母親は居なくなっても気が付かれない元売春婦。仕送り月に7万円(総額)。7万円で生活費全額賄えと言われた。増やしてくれなかった。 授業ごとに校舎と教室が変わるというシステムになじめず、また事故のせいで授業について行けなくなり、物性物理研究会(Institusion of Solid State Phisics:ISSP)に入り浸り、 独自に勉強を行う。ただ、英語の補習をすっぽかしてサークルのスキー合宿に参加するなど、授業態度は最悪だった。第2外国語はフランス語を選択。 理系はドイツ語を勉強せい、と言う風潮があったが、構わず選択、ただし、ただでさえ外国語を覚えるのが苦手なのに、フランス語は超絶難しかった。 経済学はまじめに勉強し、レポートの厚みは5cm(手書き)。テストは全問予想するが、評価はB。大学なんて評価は主観が入りまくりだ。 結晶チューターも務めた。入学して半年間は男声合唱団メンネルコールにも所属。大学でサークルの掛け持ちをすると言う事はどう言う事か思い知った。
平成3年(1991年)4月、物性物理研究会 副会長を経て会長に就任。他人にあれしろこれしろ、と指示をするのがどう言う事かよく判っていなかった私は、 自分で備品の整理整頓をしたりはするが、テーマを考えてサークル員に研究を行わす、と言う事が出来なかった。また、サークル員の中からも、こう言う事をしたい、 と自発的に動く人間を育てられなかった。入学式で私のサークル勧誘を見て、香取仁子がもう1人の女の子を連れて物性物理研究会に入部する。 彼女は初デートで娘とキスして良いよと誘い、ドン引きする。仕事のため電話で別れを告げ、サークルでカラオケ行って、 色つきの女でいてくれよと矢切の渡し を歌ったら、矢切の渡しの第一音で切りやがった。挙げ句、副会長とつきあい、副会長は会長になれませんでした。更に、田中角栄の金庫番と言う、父親の人脈と体を使って、 色々邪魔ばかり29年間にわたり続けられました。そんなに男が欲しいのなら橋下徹の愛人にでもなれば。香取仁子は私が中退後、偽父親を今度は山梨県の 最低最悪の暴力団組長に入れ替える。
平成3年(1991年)9月、立命館大学中退。一年の時に試験中全日程で無給で徹夜で仕事を持ち込まれて以来、大学をまともに卒業する事は諦めていたが、 今度は、営業マンが全員辞めたから帰って来てくれと言う物だった。偽父親の目下に対する対人能力の欠如は就職後も私を散々に悩ます事になる。 韓国政府の目的は全国偏差値86を潰す事だから。
平成3年(1991年)10月、株式会社日本温度検出端製作所 入社。初任給18万円。(税引き前)親の都合で帰って来たのに、高卒扱いとはどう言う訳だ、と、 今なら文句を言ったであろうが、成績とか、家の事情だろう、とか、特に疑問を持たなかった。この、特に疑問を持たない、と言う性格は深く勉強をするには 役に立ったかもしれないが、父親に関しては失敗だった。この事で、何にでも疑問を持つ様になり、物事を深く考えるきっかけになった。
入社直後、導入が決定していた三浦工業(Zsystem)にけちをつけ、社屋まで行って取締役と面会、一番詳しい人を紹介して貰ったが、 物性物理研究会の人間よりレベルは低かった。この事を証明する為に、大学時に関わっていた DOS BASICのフラクタルエディタのソース(N88BASIC Compilerでコンパイルし、 autoexec.batから.exeファイルを起動する)とレイトレーシングアニメーション連続100枚組のプログラムとデータを渡した(こちらは実行ファイルのみ)。 双方納得の上で(契約はしてしまったから)最後まで放り出させずに作らせる事に成功する。ただし、PFU独自のUNIXのワークステーションをパソコンが一台も入っていない 現場に入れようというのだから、はっきり言って混乱以外の何物でもない。
営業はもちろん、JIS製図、製造(旋盤、フライス盤等)、組み立て、検査、出荷まで全てやる。この頃はなんだかんだ言って月給25万円(残業代込み)貰った事もあり、 まだ幸せな時期だった。ただ、ボーナスは一円もなかった。
平成5年(1993年)1月、パソコン通信に手を出した私は、草の根通信ホスト、NetCockと、KTXcock に出会う。KTXcock のソースを見た私は、これなら私の方がうまく書ける、 と改造を決意する。幸い、KTXcock は改造を認めていたので、ドキュメントにもその事を堂々と書いた上で、有料で売り出す。好評を博したが、 通信は情報交換の場で金儲けの場ではない、と考える学生の中には、私を嫌う者もいた様だ。それなら、単にソフトを使わない、金を払わなければ良いだけの話しだが、 中には一線を越えて銀行に勤めて私への入金を横領する者が現れる。
平成7年(1995年)2月、ボーナスは出ない、言う事は聞かない、備品は買って貰えない、と言う状況に嫌気度が MAX に達し、血がにじむ思いをして貯金した 30万円を持って家を飛び出す。大阪で就職活動をしたが、図面を引く仕事以外は回ってこなかった。社長の息子というのはこんなにも再就職が難しいのか、 と実感した瞬間。資金が尽きようか、とした時、池田総合建設の池田泰宏社長に拾って貰う。後で色々聞いたところによると、池田社長も私と似た様な境遇で、 それ故に産業スパイか、と疑った面もある様だ。ただ、話す内に、従業員に向かって、「運命の出会いをした」と話す事もあった。ただ、コンピューターに関しては、 やはり私の話しを聞いてくれず、RICOH の完全独自規格のMOによるファイリングシステムを掴まされたりしていた。
池田総合建設から管理者養成基礎コース 最難関教室へ派遣される。そこでの評価は目にしていないので判らないが、他人の意見を聞いても自説を曲げない、 とかそんな物だろう。だが、物理全国ランキング1位で社長の息子が、他人の意見(どんな人間か判らない)を簡単に受け容れる訳にはいかない、と言うのもまた事実。 ただ、下から3番目に卒業した。これは事実。
延長食らってへとへとになって帰って来たところで、理不尽な扱いを受けたので、怒って社長に殴りかかる。これは、今から考えればそこまでしなくても よかったと思うが、異常な精神状態下にあった、としか説明のしようがない。管理者養成学校とは、人間の底まで素っ裸にしてしまおうという場所なので、 そう言う精神状態になる事もあるのだろう。今思えば、池田社長がいつかは帰る人間ならさっさと返してしまおうと考えたのかもしれない。と言う訳で首。(笑
平成8年(1996年)11月、一年間の約束でローソンでアルバイトをする。商品の量が多く、絶対にコンピューター化が必要だ、と考えていたが、 コンピューター部門に配属しようか、と言う話はとうとう一言もなかった。世間ではコンピューターの専門家は簡単に育つと考えられているのだろうか。
平成12年(2000年)10月、株式会社伊予エンジニアリングから松田産業株式会社を経由して、株式会社マツダに入社する。仕事内容はECU(Engine Control Unit)の開発、 Sub-C と呼ばれる形式からC言語に変換するプログラムの作成(3日間、VisualBasic6)、数十億円もする(と言われた)ソフトウェアの評価(却下、1日)、ボーナス5万円。 仕事がなくなったので、1週間家で休んでいたら首になった。マツダは私が働くには相応しくなかった。
平成22年(2010年)4月、大日本スクリーン株式会社に派遣社員として入社。温度センサーとコンピューターの知識が役に立つ、と考えていたが、遂にその機会は訪れなかった。 午後10時まで残業させておきながら、就業時間内にソフトウェアを開発する時間を与えず、参考書も何も与えず、5,000円でエクセルを使った温度モニタソフトを 作らせようとした節がある。誰が5,000円で作るか馬鹿。ソフトをいつまでたっても作ろうとしないと判ると、会社側は上司を働かせない様にしたのかどうかは判らないが、 上司が出社しなくなり、職場放棄をしたため、退社。何もせずに会社にいて給料を貰うだけ、と言う生き方は私の生き方とは違う。
と言う訳で、日本の企業はソフトウェアエンジニアという物の存在を無視している、と言うのが私の感想。アメリカに追いつく事は、21世紀中は無理である。 中国にも負けるであろう。北朝鮮に負ける日が来るかもしれない。ちなみに、私は入社研修というものはそれぞれ1日程度しかない中で現場に投入され、 成果を上げすぎて首になった経緯を持つ。
私は、20代で金を持つとクレイジーになる、と40歳を過ぎるまで手元に金が無くても何も言わなかった。私をそこら辺の成金と一緒にしないでくれ。 私の金の使い方を見てそれが解らない様では、私を批判する資格はない。黙っていろ。
旺文社の百科事典によると、平安時代に朝鮮半島から龍造寺村に渡ってきたのが始まりだそうだ。当時、半島から日本に渡ってくる理由を持ち、かつ、 遣唐使の廃止の真の理由を考えると、百済王朝の生き残りで親衛隊長と王朝の娘がしんがりとして残ったのではないだろうか。後に天皇家の弟、 菅原道真などが大宰府に越してきました。龍造寺と言うのは十常侍から変化したものと思われる。
戦国時代、龍造寺隆信は有田焼を韓国に輸出し、その豊富な資金で織田信長よりも鉄砲を多く所持していましたが、薩摩軍が田んぼで特攻を仕掛けてきた所を 視察しに来た所、殺されてしまいました。有田焼の職人が逃げてしまったため、豊臣秀吉は韓国に出兵し、職人を連れ戻しました。薩摩に勝った豊臣氏に 龍造寺氏の末裔は近づき、大坂の陣では想像ですが真田丸の隣に小さな堀を掘り、小さな出城真田丸に徳川方が近付いたところを横から鉄砲で攻撃を仕掛け、 真田丸には死体が山積みに。掘った堀の跡地が龍造寺町となったのだと思います。ここで問題です。豊臣秀頼の死体は確認できたのか、逃げたとすればそれはどこか。 薩摩??
祖父は対馬で村長兼地主、祖母は岩崎敏子(京都の置屋の跡取り)で終戦後保険の外交員で20年間連続 所長賞を受賞する。父は山里産業から独立した社長、 母の父親は大阪の放出で高級石鹸の製造と個人タクシーの駐車場を経営、その息子たちは高級な石鹸を大量生産している。その長男は御巣鷹山被害者の会代表。 私の下の妹は理容専門学校を首席で卒業、日本最大の広告代理店の重役秘書を務めた事がある。